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第9話 恋に気づいて

last update publish date: 2026-04-08 16:10:00

よそよそしい彼の作り笑いが、仕事中も脳裏にこびりついて離れない。忘れようとして、ジムで汗を流す。けれど、彼の低く甘い声が、耳の奥にこだまして、忘れさせてくれない。自宅に帰ってからも、彼の幻影は消えてはくれなかった。

『佳晴さん』

ふいに、彼の甘えるような声音が蘇る。

「……っ!」

劣情を抱えた僕は、窄まりにも手を伸ばす。彼の手つきを再現するように動かすけれど、どこか物足りない。

「相沢、さんっ……!」

僕は、少し強引に欲望を吐き出す。すっきりしたはずなのに、どろりとした熱は燻ったままだ。

「どんな呪いだよ……まったく」

つぶやいて、ため息をついた。

相沢さんを知りたいし、抱かれたい。けれど、それ以上に、彼と一緒にいたいと願うようになっていた。

色褪せた平日がすぎ、楽しみにしていたはずの土曜日。僕は、ベッドに横になり、天井を見上げていた。当然のように、考えるのは相沢さんの事で。

(……逃げてちゃだめだよな)

頭ではわかっていても、動けない。先に進みたいのに、今の関係を壊したくない。有り体に言えば、傷つきたくないのだ、僕は。

思えば、あずさと交際している時もそうだった。何か大きな決断をしなければいけない時は、大抵、あずさが決めていた。彼女に丸投げしていたと言ってもいい。彼女と別れる時だってそうだ。切り出すのは、いつも彼女からで。

「……あの頃から、変わってないな」

ぽつりとつぶやき、何も変わっていない自分に嫌気が差す。

うじうじしている自分を、変えたかったのではなかったか。本気で、幸せになりたいと思ったのではなかったか。

「そんなの、幸せになりたいに決まってる!」

問い詰めるような理性の問いかけに、僕は当然とばかりに言い放った。

それで、思い出した。相沢さんと体を重ねた理由を。『幸せじゃない状態』から抜け出す事――それが、彼に抱かれた理由だ。

「――もう、ケリつけなきゃな」

うじうじしているのは、もうやめよう。そう決意して、僕は家を出た。

篝火に到着すると、静かな店内は、週末ともあって賑わっている。

「いらっしゃいませ」

マスターの落ち着いた声に、僕は「どうも」と会釈していつもの席に座った。

「いらっしゃいませ、佳晴さん。いつもより、少し早くない?」

と、僕の目の前に相沢さんがやってきた。

彼は、いつも通りの態度と声音で、メニュー表を僕に差し出す。気まずい雰囲気なんて、これっぽっちもない。

(あの事、気にしてなかったりするのかな……?)

と、少し引っかかりを覚えた。気にしているのは、もしかしたら僕だけなのかもしれない。

「佳晴さん? どうかしましたか?」

と、心配そうに小首をかしげる相沢さん。

その姿が、妙にかっこよく見えて、僕は何でもないと口早に告げ、メニュー表を広げる。酒を飲んでもいないのに、顔が熱いし、鼓動がうるさい。何なのだろうと考えて、今更ながらに自覚した。僕は、相沢さんに恋をしている。

そう認めた瞬間、どんよりしていた僕の心は、噓のように晴れた。

「相沢さん。あの……今日は、話したい事があるから、アルコールは抜きにしたいんだけど……」

緊張気味に告げる。どうにか噛まずに言えたけれど、口の中が妙に乾いている気がする。

「……かしこまりました。それでは、ノンアルチャイナブルーはいかがでしょう?」

「ノンアルチャイナブルー? そんなの、あるんですか?」

僕が驚きの声を上げると、相沢さんはうなずいて、さっそく材料を準備する。

グラスにすべての材料を注ぎ入れ、軽く混ぜる。

「お待たせしました」

と、差し出されたそれには、いつものように彼の自宅の鍵も添えられている。

「悪い。仕事、抜けられそうにないんだ。いつもの時間でいい?」

と、相沢さんは小声でたずねる。

僕はうなずいて、いつまでも待っていると告げた。

彼は、はにかんだような曖昧な笑みを浮かべて、他の客のもとへ向かった。

(忙しそうだな……)

なんて思いながら、僕はノンアルチャイナブルーに口をつける。チャイナブルーの爽やかで飲みやすい味わいはそのままに、アルコール特有の癖が抜けている。

(うん、美味しい。作り方、後で教えてもらおうかな)

自宅でも手軽にチャイナブルーの味を楽しむなら、これで充分だと思った。

軽食をいくつか注文し、腹ごしらえをする。アルコールがない分、しっかり食べておかなければ、なんて思考になっていた。

相沢さんが僕の席近くを通る度、ちらりと横目で彼をうかがい見る。その真剣な表情に心奪われ、ずっと見ていたいと思ってしまう。何だか、彼がいつもより輝いて見えた。

彼の仕事姿を眺めていたいと思いつつ、僕は篝火を後にした。そのまま、彼の自宅に向かう。

「お邪魔、します」

玄関に入った僕は、少し強張った声音でつぶやいた。

週一で来ていて慣れているはずなのに、何だか緊張してしまう。少なからず、僕が意識しているせいなのだろう。

いつもの寝室も、今日はやけに色鮮やかに見える。相変わらず壁にかけられているジャケット、真っ白なベッド、清潔感のある室内。それらすべてが、とても愛おしく感じた。

ベッドに腰かけ、息をつく。誰かを好きになることが、こんなにも高揚感をもたらすなんて、すっかり忘れていた。

(相沢さんは、どう思ってるんだろう?)

ふと、彼の気持ちが気になった。いつも通りだったのは、仕事中だからだろう。だから、なおさら、相沢さんの本音が知りたい。自分と同じように、恋愛対象として見てくれているのだろうか。そうであってほしいと、つい願ってしまう。

相沢さんが帰宅したのは、それから一時間ほど経過した時だった。僕が覚悟を決めるには、充分な時間だった。

「ごめん、待たせた!」

扉を開けるなり、相沢さんはそう言って肩で息をしている。どうやら、急いで帰ってきたらしい。

「ううん、大丈夫だよ。僕の方こそ……ごめん」

「何で、佳晴さんが謝るのさ? 何も悪い事なんかしてないだろ?」

と、諭すように言って、彼は僕の隣に腰かける。

「それは、そうだけど……」

口ごもる僕の頭を、相沢さんは優しくなでた。

「それより、大事な話があるんじゃないの?」

聞かせて欲しいと、僕の目を真正面から見る。

「実は……」

言いかけた途端、急に臆病風に吹かれた。言葉にするのが、怖い。言ってしまった後の、彼の反応が怖い。

(覚悟、決めたんじゃなかったのか!)

と、内心で自分を叱りつける。うじうじしている自分を変えると決めたはずだ。

「相沢さん……貴方の事が好きです。恋愛対象として」

真っ直ぐに相沢さんを見つめて、気持ちを伝える。わずかに声が震えていたけれど、気にしている場合ではなかった。

「……え……」

相沢さんは、そうつぶやいたまま動きを止めた。感情の見えない声。いや、声というよりも、のどから出てしまった音のようにも聞こえた。

予想はしていた。けれど、実際に目の当たりにすると、心が抉られる。

「貴方は? 僕の事、どう思ってますか?」

胸の痛みに耐えながら、僕はたずねる。

「……ここで敬語はずるいよ」

ぽつりとつぶやく相沢さん。僕から視線をはずす彼の目は、震えるように泳いでいる。

「相沢さん」

釘を刺すように彼の名を呼ぶ。

相沢さんは、観念したように息をつくと、

「佳晴さんの気持ちは、すげーうれしい。でも、悪い。あんたの気持ちには、応えられない」

と、深々と頭を下げた。

「どうして……?」

僕は、震える声で理由をたずねる。

「俺、恋人は作らない主義なんだ。ごめん」

「そっか……。それなら……しかたがない、よね。僕の方こそ、ごめん」

取り繕うように告げる僕の声は、震えたままだった。

僕達の間に、言いようのない沈黙が訪れ、気まずさが募る。静寂が重い。両手が小刻みに震え出す。

「あ、のさ……。あのピアス。誰の物なのかだけでも、教えてもらえないかな? 相沢さんの恋人のなんじゃないかって、思ってたから」

精一杯の虚勢を張って、たずねてみる。

けれど、相沢さんの口から語られることはなかった。

正直なところ、ピアスの持ち主は教えてもらえると思っていた。恋人は作らないというのなら、あれはいったい誰の物なのだろう。

(僕には言えない人ってことなのか?)

そんな思いが、口をついて出そうになった。咄嗟に、力強く拳を握りしめ、言葉を呑みこむ。

胸が痛い。断られる事なんて、予想していたはずなのに。傷つく事も厭わないと思っていたのに。彼の口から聞くと、ダメージは想像以上だ。

これ以上、ここにはいられない。体だけの関係も解消するべきだ。そう思った僕は、ゆっくりと立ち上がる。

「佳晴さん……?」

相沢さんの縋るような声音に、胸が締めつけられる。感情のままに責めてしまいそうで、彼の顔をまともに見られない。

「……それじゃあ、帰ります。さよなら」

できるだけ感情を抑えて告げると、僕はその場を後にした。

自宅に戻り、玄関の扉を閉めた瞬間に視界が歪んだ。抑えていた感情が、涙になって溢れ出す。五年前にも味わった胸の痛み。いや、それ以上かもしれない。僕は、静かに嗚咽を漏らして泣き崩れた。

それから、僕の日常は、色褪せたものに変わった。仕事をしていても、好きな曲を聴いていても、酒を飲んでいても、すべてが味気ない。性欲処理にいたっては、手近な誰かを探そうとする始末で。でも結局は、相手に連絡をすることもなく、一人で処理をするばかりだった。それでも、どうにも満たされない。いつまでも、彼の幻影に囚われている。

土曜日の夜、いつもなら篝火に足を運ぶ。でも、どうしてもそういう気にはなれなかった。別れを告げた手前、相沢さんに合わせる顔がない。

「元の木阿弥、か……」

ため息とともにつぶやく。

もしかしたら、以前よりもすべてが色褪せ、つまらないものになってしまった。

「あの時、好みのタイプだって言ってたのにな……」

言葉にすると、また涙が溢れてくる。

『あんたが、俺の好みのタイプだから』

初めて、相沢さんから自宅の鍵を受け取ったあの日、彼はそう言っていた。それは、体を重ねる上での事だったのか。恋人を作らないという事は、おそらくそういう事だ。初めから、彼は割り切っていた。それなのに、僕は本気になってしまった。

「何で……好きになっちゃったのかな?」

相沢さんに会いたい。けれど、会いたくない。相反する気持ちが、僕の心の中でぶつかり合っていた。

翌日。夏本番と言いたくなるくらい、熱い日差しが窓越しに差し込んでくる。けれど、僕の心は相変わらずどんよりと曇っている。

このまま諦めるのかと、理性が問いかけてくる。諦めきれるわけがない。でも、脈は限りなくゼロに近い。どうしたらいいのかわからなくて、僕はため息をついた。

「とりあえず、出かけるか」

部屋にいたら、ますます鬱々としてしまう気がして家を出る。日差しの眩しさに、目を細めた。

行く当てもなく歩き出すと、足は自然と篝火へと向かっていた。

「あ……」

開店前の篝火の前で足を止め、気まずさに苛まれる。けれど、どうしてもその場から動く事ができなかった。

「まだ開いてないですよ? お兄さん」

突然、女性の声が聞こえてきて、僕はびくりと肩を震わせる。

声がした方に視線を向けると、僕とほぼ同じ身長の女性がこちらに歩いてくるところだった。彼女のシナモン色のポニーテールには、見覚えがある。篝火の店員である理沙さんだ。

「あれ? お兄さんって、もしかして『土曜日の君《きみ》』?」

理沙さんは、僕の顔を見るなり、そう言った。

「え……?」

聞き慣れない言葉に、僕は眉根を寄せて聞き返す。

「あ! ごめんなさい。いきなり、変な事言って。私、このバーの店員なんです。お兄さんが、毎週土曜日に来るお客さんに似てたから」

と、彼女は申し訳程度に謝罪する。

「いや、似てるっていうか、たぶん本人です。毎週土曜日に、ここに来てたから」

僕が言うと、

「やっぱり、間違ってなかったんだ! よかったー! 私、滝川理沙って言います」

と、理沙さんが自己紹介をした。

一応、僕も名乗って、その場から離れようとする。

「ちょっと待って! 何か、悩んでないですか?」

「あ、いや、悩みなんて……」

理沙さんに図星を突かれ、視線が泳いでしまう。

「そんなの嘘ですよ。沈んだ顔で、見つめてるんだもん、何もないわけないじゃないですか。そうだ! 私、これから行きつけのカフェに行くところなんですけど、よかったら、ご一緒しません?」

理沙さんは、にっこりと微笑んで提案した。

「え!?」

急な誘いに、僕は上手く断れなかった。

「行きましょ、行きましょ!」

理沙さんは、僕の手を引いて歩き出した。

「ち……ちょっと、理沙さん!?」

僕は、引きずられるようについて行く。

やけに眩しい彼女の笑顔が、僕の心に光を灯した気がした。

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