로그인よそよそしい彼の作り笑いが、仕事中も脳裏にこびりついて離れない。忘れようとして、ジムで汗を流す。けれど、彼の低く甘い声が、耳の奥にこだまして、忘れさせてくれない。自宅に帰ってからも、彼の幻影は消えてはくれなかった。
『佳晴さん』
ふいに、彼の甘えるような声音が蘇る。
「……っ!」
劣情を抱えた僕は、窄まりにも手を伸ばす。彼の手つきを再現するように動かすけれど、どこか物足りない。
「相沢、さんっ……!」
僕は、少し強引に欲望を吐き出す。すっきりしたはずなのに、どろりとした熱は燻ったままだ。
「どんな呪いだよ……まったく」
つぶやいて、ため息をついた。
相沢さんを知りたいし、抱かれたい。けれど、それ以上に、彼と一緒にいたいと願うようになっていた。
色褪せた平日がすぎ、楽しみにしていたはずの土曜日。僕は、ベッドに横になり、天井を見上げていた。当然のように、考えるのは相沢さんの事で。
(……逃げてちゃだめだよな)
頭ではわかっていても、動けない。先に進みたいのに、今の関係を壊したくない。有り体に言えば、傷つきたくないのだ、僕は。
思えば、あずさと交際している時もそうだった。何か大きな決断をしなければいけない時は、大抵、あずさが決めていた。彼女に丸投げしていたと言ってもいい。彼女と別れる時だってそうだ。切り出すのは、いつも彼女からで。
「……あの頃から、変わってないな」
ぽつりとつぶやき、何も変わっていない自分に嫌気が差す。
うじうじしている自分を、変えたかったのではなかったか。本気で、幸せになりたいと思ったのではなかったか。
「そんなの、幸せになりたいに決まってる!」
問い詰めるような理性の問いかけに、僕は当然とばかりに言い放った。
それで、思い出した。相沢さんと体を重ねた理由を。『幸せじゃない状態』から抜け出す事――それが、彼に抱かれた理由だ。
「――もう、ケリつけなきゃな」
うじうじしているのは、もうやめよう。そう決意して、僕は家を出た。
篝火に到着すると、静かな店内は、週末ともあって賑わっている。
「いらっしゃいませ」
マスターの落ち着いた声に、僕は「どうも」と会釈していつもの席に座った。
「いらっしゃいませ、佳晴さん。いつもより、少し早くない?」
と、僕の目の前に相沢さんがやってきた。
彼は、いつも通りの態度と声音で、メニュー表を僕に差し出す。気まずい雰囲気なんて、これっぽっちもない。
(あの事、気にしてなかったりするのかな……?)
と、少し引っかかりを覚えた。気にしているのは、もしかしたら僕だけなのかもしれない。
「佳晴さん? どうかしましたか?」
と、心配そうに小首をかしげる相沢さん。
その姿が、妙にかっこよく見えて、僕は何でもないと口早に告げ、メニュー表を広げる。酒を飲んでもいないのに、顔が熱いし、鼓動がうるさい。何なのだろうと考えて、今更ながらに自覚した。僕は、相沢さんに恋をしている。
そう認めた瞬間、どんよりしていた僕の心は、噓のように晴れた。
「相沢さん。あの……今日は、話したい事があるから、アルコールは抜きにしたいんだけど……」
緊張気味に告げる。どうにか噛まずに言えたけれど、口の中が妙に乾いている気がする。
「……かしこまりました。それでは、ノンアルチャイナブルーはいかがでしょう?」
「ノンアルチャイナブルー? そんなの、あるんですか?」
僕が驚きの声を上げると、相沢さんはうなずいて、さっそく材料を準備する。
グラスにすべての材料を注ぎ入れ、軽く混ぜる。
「お待たせしました」
と、差し出されたそれには、いつものように彼の自宅の鍵も添えられている。
「悪い。仕事、抜けられそうにないんだ。いつもの時間でいい?」
と、相沢さんは小声でたずねる。
僕はうなずいて、いつまでも待っていると告げた。
彼は、はにかんだような曖昧な笑みを浮かべて、他の客のもとへ向かった。
(忙しそうだな……)
なんて思いながら、僕はノンアルチャイナブルーに口をつける。チャイナブルーの爽やかで飲みやすい味わいはそのままに、アルコール特有の癖が抜けている。
(うん、美味しい。作り方、後で教えてもらおうかな)
自宅でも手軽にチャイナブルーの味を楽しむなら、これで充分だと思った。
軽食をいくつか注文し、腹ごしらえをする。アルコールがない分、しっかり食べておかなければ、なんて思考になっていた。
相沢さんが僕の席近くを通る度、ちらりと横目で彼をうかがい見る。その真剣な表情に心奪われ、ずっと見ていたいと思ってしまう。何だか、彼がいつもより輝いて見えた。
彼の仕事姿を眺めていたいと思いつつ、僕は篝火を後にした。そのまま、彼の自宅に向かう。
「お邪魔、します」
玄関に入った僕は、少し強張った声音でつぶやいた。
週一で来ていて慣れているはずなのに、何だか緊張してしまう。少なからず、僕が意識しているせいなのだろう。
いつもの寝室も、今日はやけに色鮮やかに見える。相変わらず壁にかけられているジャケット、真っ白なベッド、清潔感のある室内。それらすべてが、とても愛おしく感じた。
ベッドに腰かけ、息をつく。誰かを好きになることが、こんなにも高揚感をもたらすなんて、すっかり忘れていた。
(相沢さんは、どう思ってるんだろう?)
ふと、彼の気持ちが気になった。いつも通りだったのは、仕事中だからだろう。だから、なおさら、相沢さんの本音が知りたい。自分と同じように、恋愛対象として見てくれているのだろうか。そうであってほしいと、つい願ってしまう。
相沢さんが帰宅したのは、それから一時間ほど経過した時だった。僕が覚悟を決めるには、充分な時間だった。
「ごめん、待たせた!」
扉を開けるなり、相沢さんはそう言って肩で息をしている。どうやら、急いで帰ってきたらしい。
「ううん、大丈夫だよ。僕の方こそ……ごめん」
「何で、佳晴さんが謝るのさ? 何も悪い事なんかしてないだろ?」
と、諭すように言って、彼は僕の隣に腰かける。
「それは、そうだけど……」
口ごもる僕の頭を、相沢さんは優しくなでた。
「それより、大事な話があるんじゃないの?」
聞かせて欲しいと、僕の目を真正面から見る。
「実は……」
言いかけた途端、急に臆病風に吹かれた。言葉にするのが、怖い。言ってしまった後の、彼の反応が怖い。
(覚悟、決めたんじゃなかったのか!)
と、内心で自分を叱りつける。うじうじしている自分を変えると決めたはずだ。
「相沢さん……貴方の事が好きです。恋愛対象として」
真っ直ぐに相沢さんを見つめて、気持ちを伝える。わずかに声が震えていたけれど、気にしている場合ではなかった。
「……え……」
相沢さんは、そうつぶやいたまま動きを止めた。感情の見えない声。いや、声というよりも、のどから出てしまった音のようにも聞こえた。
予想はしていた。けれど、実際に目の当たりにすると、心が抉られる。
「貴方は? 僕の事、どう思ってますか?」
胸の痛みに耐えながら、僕はたずねる。
「……ここで敬語はずるいよ」
ぽつりとつぶやく相沢さん。僕から視線をはずす彼の目は、震えるように泳いでいる。
「相沢さん」
釘を刺すように彼の名を呼ぶ。
相沢さんは、観念したように息をつくと、
「佳晴さんの気持ちは、すげーうれしい。でも、悪い。あんたの気持ちには、応えられない」
と、深々と頭を下げた。
「どうして……?」
僕は、震える声で理由をたずねる。
「俺、恋人は作らない主義なんだ。ごめん」
「そっか……。それなら……しかたがない、よね。僕の方こそ、ごめん」
取り繕うように告げる僕の声は、震えたままだった。
僕達の間に、言いようのない沈黙が訪れ、気まずさが募る。静寂が重い。両手が小刻みに震え出す。
「あ、のさ……。あのピアス。誰の物なのかだけでも、教えてもらえないかな? 相沢さんの恋人のなんじゃないかって、思ってたから」
精一杯の虚勢を張って、たずねてみる。
けれど、相沢さんの口から語られることはなかった。
正直なところ、ピアスの持ち主は教えてもらえると思っていた。恋人は作らないというのなら、あれはいったい誰の物なのだろう。
(僕には言えない人ってことなのか?)
そんな思いが、口をついて出そうになった。咄嗟に、力強く拳を握りしめ、言葉を呑みこむ。
胸が痛い。断られる事なんて、予想していたはずなのに。傷つく事も厭わないと思っていたのに。彼の口から聞くと、ダメージは想像以上だ。
これ以上、ここにはいられない。体だけの関係も解消するべきだ。そう思った僕は、ゆっくりと立ち上がる。
「佳晴さん……?」
相沢さんの縋るような声音に、胸が締めつけられる。感情のままに責めてしまいそうで、彼の顔をまともに見られない。
「……それじゃあ、帰ります。さよなら」
できるだけ感情を抑えて告げると、僕はその場を後にした。
自宅に戻り、玄関の扉を閉めた瞬間に視界が歪んだ。抑えていた感情が、涙になって溢れ出す。五年前にも味わった胸の痛み。いや、それ以上かもしれない。僕は、静かに嗚咽を漏らして泣き崩れた。
それから、僕の日常は、色褪せたものに変わった。仕事をしていても、好きな曲を聴いていても、酒を飲んでいても、すべてが味気ない。性欲処理にいたっては、手近な誰かを探そうとする始末で。でも結局は、相手に連絡をすることもなく、一人で処理をするばかりだった。それでも、どうにも満たされない。いつまでも、彼の幻影に囚われている。
土曜日の夜、いつもなら篝火に足を運ぶ。でも、どうしてもそういう気にはなれなかった。別れを告げた手前、相沢さんに合わせる顔がない。
「元の木阿弥、か……」
ため息とともにつぶやく。
もしかしたら、以前よりもすべてが色褪せ、つまらないものになってしまった。
「あの時、好みのタイプだって言ってたのにな……」
言葉にすると、また涙が溢れてくる。
『あんたが、俺の好みのタイプだから』
初めて、相沢さんから自宅の鍵を受け取ったあの日、彼はそう言っていた。それは、体を重ねる上での事だったのか。恋人を作らないという事は、おそらくそういう事だ。初めから、彼は割り切っていた。それなのに、僕は本気になってしまった。
「何で……好きになっちゃったのかな?」
相沢さんに会いたい。けれど、会いたくない。相反する気持ちが、僕の心の中でぶつかり合っていた。
翌日。夏本番と言いたくなるくらい、熱い日差しが窓越しに差し込んでくる。けれど、僕の心は相変わらずどんよりと曇っている。
このまま諦めるのかと、理性が問いかけてくる。諦めきれるわけがない。でも、脈は限りなくゼロに近い。どうしたらいいのかわからなくて、僕はため息をついた。
「とりあえず、出かけるか」
部屋にいたら、ますます鬱々としてしまう気がして家を出る。日差しの眩しさに、目を細めた。
行く当てもなく歩き出すと、足は自然と篝火へと向かっていた。
「あ……」
開店前の篝火の前で足を止め、気まずさに苛まれる。けれど、どうしてもその場から動く事ができなかった。
「まだ開いてないですよ? お兄さん」
突然、女性の声が聞こえてきて、僕はびくりと肩を震わせる。
声がした方に視線を向けると、僕とほぼ同じ身長の女性がこちらに歩いてくるところだった。彼女のシナモン色のポニーテールには、見覚えがある。篝火の店員である理沙さんだ。
「あれ? お兄さんって、もしかして『土曜日の君《きみ》』?」
理沙さんは、僕の顔を見るなり、そう言った。
「え……?」
聞き慣れない言葉に、僕は眉根を寄せて聞き返す。
「あ! ごめんなさい。いきなり、変な事言って。私、このバーの店員なんです。お兄さんが、毎週土曜日に来るお客さんに似てたから」
と、彼女は申し訳程度に謝罪する。
「いや、似てるっていうか、たぶん本人です。毎週土曜日に、ここに来てたから」
僕が言うと、
「やっぱり、間違ってなかったんだ! よかったー! 私、滝川理沙って言います」
と、理沙さんが自己紹介をした。
一応、僕も名乗って、その場から離れようとする。
「ちょっと待って! 何か、悩んでないですか?」
「あ、いや、悩みなんて……」
理沙さんに図星を突かれ、視線が泳いでしまう。
「そんなの嘘ですよ。沈んだ顔で、見つめてるんだもん、何もないわけないじゃないですか。そうだ! 私、これから行きつけのカフェに行くところなんですけど、よかったら、ご一緒しません?」
理沙さんは、にっこりと微笑んで提案した。
「え!?」
急な誘いに、僕は上手く断れなかった。
「行きましょ、行きましょ!」
理沙さんは、僕の手を引いて歩き出した。
「ち……ちょっと、理沙さん!?」
僕は、引きずられるようについて行く。
やけに眩しい彼女の笑顔が、僕の心に光を灯した気がした。
「ぁ……ごめん、汚しちゃった」僕は、荒い息のまま謝罪する。僕の足先の床に、白濁の液体が水溜りのように広がっている。「あぁ、別にいいよ。後で掃除するから。それよりさ、ベッド行こうぜ」「あぇ……ベッド?」「あんたのかわいい顔見ながら、イきたい。いいだろ?」竜希は、そうささやいて僕の耳たぶを甘噛みする。「ん……っ! ぁ……少しだけ、じゃなかった?」「満足させてくれって言ったのは、あんただぜ?」くつくつと笑う竜希は、僕から自身を抜いた。「ひぅ……」ずるりと引き抜かれる感触に、思わず声が出てしまった。「こんなんじゃ、まだ足りねえだろ?」妖艶に告げる竜希に、僕は無言でうなずいた。「だよな。おいで」彼にうながされてベッドに向かうと、優しく押し倒された。「佳晴さん、かわいい。ずっと、俺だけ見てて」竜希はそう言うと、僕の返事を待たずにキスをした。優しく甘く温かいキスに、ゆっくり溶けてしまいそうだ。(僕だけ見てて、竜希……)独占欲にも似た感情が、胸の中に溢れてくる。息が苦しくなるのも構わずに、僕達は貪るようにキスをする。呼吸の一つ、唾液の一滴さえも逃したくないくらいに夢中になっていた。「んぁ……」甘くとろけた吐息が漏れた。舌もしびれている。(このまま、キスしていたい……)ぼんやりとそんな事を思っていると、竜希の唇がふっと離れた。名残惜しくて目を開けると、竜希は瞳をギラつかせていた。本能むき出しの姿に雄を感じて、心臓が跳ねる。同時に、僕自身が硬く反り勃ち、腹の奥が疼いた。「た、つき……」もたつく
注文していたピザが届くと、僕達はいつものように向かい合って食卓を囲んだ。僕の前にはアスパラとベーコンとコーンが乗ったピザが、竜希の前にはペパロニがたくさん乗ったピザが置かれている。いただきますと言って食べ始める。シャキシャキとしたアスパラの食感とベーコンの塩気、それにコーンの甘味がちょうどいい。「佳晴さんのも美味そうだな。一切れちょうだい」「いいよ。そっちの、一切れもらっても?」「もちろん」と、互いのピザの一切れを交換する。もらったピザを一口食べると、ペパロニ独特の肉の味とチーズのコクが口の中いっぱいに広がった。「これも美味しいな」「だろ? 一番好きなピザなんだよね。こっちはどうかな、と。……美味い! これ、好きだ」アスパラベーコンのピザを一口食べると、竜希の顔に満面の笑みが咲いた。「よかった、気に入ってもらえて。このピザ、僕のお気に入りなんだ」「じゃあ、よく頼むんだ?」「うん。たまに、別のを選ぶけどね。期間限定のとか、クアトロフォルマッジとか。でも、結局これに戻っちゃうんだよね」「ああ、それは確かにわかるかも。食い飽きない味だもんな、これ」言いながら、竜希はその一切れを頬張る。そんな彼を見て、ほっとすると同時に笑みがこぼれた。誰かと好きな味を共有できることが、とてもうれしい。それに、自宅で食べるピザよりも、格段に美味しい気がする。(これも、竜希と一緒だからかな)なんて、自然と彼に視線が行く。「どうしたの? そんなに見つめてくれちゃって。もしかして、もう一切れ欲しい?」小首をかしげて、竜希は自分のピザを指さした。「違うよ。竜希と一緒だから、ピザが美味しいなって思っただけ」僕は、わずかの逡巡、思ったままを伝えた。「……そっか。それなら、よかったよ」と、竜希はにやりと口角を上げる。けれど、爽やかな笑顔とも妖艶なそれとも違う。少しだけ、揶揄いが含まれているような感じがした。
カフェを出た僕達は、真っ直ぐアパートへと向かった。その間も、竜希は当然のように愛をささやいてくる。聞いているこちらが恥ずかしくなるくらいの甘い台詞だ。でも、うれしすぎて自然ににやけてしまう。「もうわかったから、やめろって」「嫌だね。俺がどれだけ佳晴さんを愛してるか、ちゃんと理解してもらわなきゃ」「理解してるから。変に嫉妬して、悪かったよ」「別に、それはいいよ。俺だって、嫉妬してもらえるのはうれしいからさ。でも、俺にはあんたしかいないの。他の奴なんかどうでもよくなるくらい、佳晴さんに惚れてるの。もう、あんたなしじゃ、生きられねえんだよ」ねっとりと告げる竜希の言葉に、僕の体は熱くなり、自身は股布を押し上げるほど主張している。(まったく、運転中なのにな……)僕は、軽く息をついた。早く彼に触れたい、抱きしめたい。焦燥感にも似た思いが込み上げ、ハンドルを握る手に力が入る。もちろん、安全運転は心がけているけれど。「なあ、竜希?」「ん? 何?」「どうして、そんなに僕を口説いてるんだ? もう堕ちてるのに」「さあ? どうしてだろうな?」他人事のように竜希が言った。ちらりと見た横顔には、困ったような笑顔が浮かんでいる。「まあでも、俺があんたに伝えたいだけだから。そんなに、重く考えなくていいんじゃねえの?」明るい口調で問いかける竜希。確かに、深刻に受け止めなくてもいいのかもしれない。「そうだな。竜希が僕を好いてくれてるんだから、それでいいか」「おう。で? 佳晴さんは?」「え、僕?」「そう。俺の事、好き?」「もちろん好きだよ。貴方の隣を、誰にも渡したくないくらいにはね」平然と言ってのける。でも、内心は、顔から火が出るほど恥ずかしかった。今まで、こんな台詞を言った事なんて一度だってなかった。なのに、竜希が相手だと、言葉が自然と溢れてくる。僕にとって、彼はすでに特別な存在になっていた。
売店に戻ると、竜希に話しかけているらしい二人組の女性が目についた。(もしかして、逆ナンされてる?)胸の中に黒いものが広がる。同時に、指先が冷えていく。気持ちを落ち着かせるように、一度ゆっくり息を吐いた。「お待たせ」と、明るく竜希に声をかけた。「あ、佳晴さん」竜希は、助かったとばかりに顔をほころばせる。「僕の連れに、何かご用ですか?」女性陣に優しくたずねる。もちろん、笑顔を保ったままだ。「あ、いえ……おしゃれでかっこいい方だから、ちょっとお話を聞きたくて」と、ショートカットの女性が臆面もなく話す。「……あっ!」僕が口を開こうとした瞬間、もう一人の女性が声を上げた。見ると、トイレ前でぶつかりそうになった小柄な女性だった。「あぁ……先ほどは、すみませんでした」「いえ、私の方こそ、ちゃんと見てなかったので」「あれ? 佳晴さんの知り合い?」竜希が小首をかしげる。「いや、さっき、ぶつかりそうになってな」事実を端的に告げる。「あの! もしよかったら、この後、食事とかどうですか? 何か、お詫びしたくて」小柄な女性は、申し訳なさそうに告げる。実際にぶつかったわけではないから、そんなに気を遣わなくていいのだけれど。「すみません、お気持ちだけいただきます。僕達、デート中なので、これで失礼しますね」にこやかに、でもきっぱりと言うと、僕は竜希を連れてその場を離れた。科学館を出るまで、僕達は無言だった。竜希は、何となく気まずくて黙っているだけなのかもしれない。でも、僕の場合は違った。心の中に渦巻く黒い感情に、囚われていた。「佳晴さん」竜希に呼ばれたけれど、答えずに車へと向かう。「おい、待てよ。佳晴さん!」彼が何を言いたいのか、何となく分かるよ
デート当日、僕はアラームが鳴る前に目が覚めた。「……楽しみにしすぎだろ」と、自分に呆れる。でも、浮足立っているのは事実だ。(さてと。何を着て行こうかな?)なんて、恋する乙女みたいなことを考える。あれでもないこれでもないと悩み、ようやく服が決まった時には、起きてから三十分ほど経っていた。内心、焦りながら身支度を整える。ちょうど準備が整ったところで、呼び鈴が鳴った。玄関を開けると、竜希が立っていた。相変わらずかっこよく決めていて、胸元には銃弾のネックレスが揺れている。「おはよう、佳晴さん」「おはよう。約束の時間より、ちょっと早いんじゃないか?」自分の事は棚に上げて、竜希にたずねる。スマホの画面をちらりと見ると、約束の時間より十五分も早い。「あんたに、早く会いたかったから」竜希は、爽やかな笑顔で、恥ずかしげもなく答える。「――っ! それは、うれしいけど……」顔が熱い。竜希の顔をまともに見られない。「照れてる佳晴さん、かわいい。とりあえず、飯食いに行こうぜ」僕はうなずいて、彼とともに家を出る。迷わず自分の車へ向かうと、「佳晴さん? 今日は、俺が車出すよ?」途中で立ち止まった竜希が、車の鍵を見せて言った。僕は首を横に振って、運転したい気分だからと告げる。そういう事ならと、竜希は快くうなずいてくれた。車に乗り込んで、どこへ行こうかと話し合う。「んー、そうだな……ファミレスでいいんじゃね?」「じゃあ、プラネタリウム近くで、ファミレス探そうか」そう言って、プラネタリウムがある科学館近くへと車を走らせる。しばらく運転すると、馴染みのあるファミレスのチェーン店が見えてきた。駐車場に車を止め、店内に入る。昼時ともあって、明るい店内は賑やかだった。空いている席に座り、料理を注文する。しばらくす
「んぅ……ふ……」頭の芯が甘くしびれ、吐息が漏れる。いつもなら、このまま押し倒され、体を重ねる流れだ。でも、押し倒される気配はおろか、肌を滑る指の感触さえない。(まだ、しないのかな?)少し残念に思ってしまった。「……それじゃあ、いつ行こうか?」僕から離れると、竜希は何事もなかったかのように聞いた。「ぁ……えっと……」頭がぼうっとして、上手く働かない。そんな事よりも、もっと触れてほしくて竜希を見つめる。「ん? どうしたの?」妖艶な笑みを浮かべる彼に、じれったさを覚えた。「……したい」視線をはずして、ぽつりとつぶやく。思ったよりも拗ねた言い方になってしまった。「んー? 何をしたいのかな?」にまにまと煽る竜希に、「……もう! エッチしたいって言ってるんだよ!」噛みつくように言った。満足そうに笑う竜希。何だか、彼の思惑通りに動かされたような気がしてならない。「まだ決めてない事あるけど、いいの?」「よくない、けど……」ごにょごにょと口ごもる。キスをしたせいで、体が火照ってしかたがない。「なら、決めちまおうぜ。全部終わってからなら、抱いてやるよ」甘やかな誘惑に、僕は無言でうなずいた。深呼吸をして、湧き上がる欲望をなだめる。思考を一旦クリアにして、パソコンの画面に視線を戻した。プラネタリウム施設の開館日を確認する。「あれ? 月曜、休みなんだ?」隣にいる竜希が、残念そうにつぶやく。「そうみたいだね。もしかして、休み取るの難しい?」難しいなら自分がと言いかけるけれど、竜希は首を横に振った。「ああ、それは
カフェに到着した僕達は、店内の奥にある席を選んだ。周囲に他の客の姿はなく、相談事をするにはうってつけだった。とはいえ、本当に彼女に相沢さんとの事を話してしまっていいのかどうか、今更ながらに悩んでしまう。注文を取りに来た店員に、理沙さんは紅茶とイチゴのパフェを、僕はコーヒーをそれぞれ注文する。「……それで、相馬さんは、何を悩んでるんです?」店員の気配がなくなってから、理沙さんがたずねた。「それは……」口ごもる僕に、理沙さんは肩をすくめて、「まあ大方、相沢先輩との事なんだろうけど」
翌日。体のだるさを引きずりながら、僕は目が覚めた。窓からは、相変わらず暖かな日差しが差し込んでいる。ふと横を見ると、相沢さんがかすかな寝息を立てている。(……きれいだよな)彼の寝顔を見ながら、僕はそんな事を思った。穏やかな寝顔を見ていると、昨夜の激しさが嘘のようだ。僕は、何の気なしに彼の髪をなでる。さらりとした質感がとても心地よくて、ずっと触っていたくなる。「ん……よしはる、さん……?」ぽやっと
自宅に戻った僕は、しばらくの間、自室でぼうっとしていた。『次の土曜日の夜に』という彼の言葉と、手の甲に触れた唇の感触が忘れられない。あの後、僕達が体を重ねることはなかった。とはいえ、緩い愛撫がエスカレートしないわけもなく、僕は彼を求めた。でも、自分でセックスはしないと言ってしまった手前、それを口にすることはできなかった。視線で察したのか、相沢さんは「あんな事、言わなきゃいいのに」なんて言いながら、僕の股間に顔を近づけ、僕自身を口に含む。そのまま口でされて、達してしまった。それが、今から三十分ほど前の事だ。「次の土曜日、か&h
暖かく眩しい日差しにあてられて、僕は目を覚ました。どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。寝ぼけ眼で室内を見回す。相沢さんの部屋だという事を思い出すのに、数秒ほどかかった。でも、肝心の彼の姿がない。(どこに行ったんだろう……?)疑問に思い、起き上がろうと寝返りを打つ。体がだるい。昨夜の記憶が、恥ずかしさとともに蘇る。でも、不思議と嫌なものではなかった。「あんなに気持ちよかったのは、久しぶりかもな」ぽつりと、本音が口から漏れた。ベッドから出ようとして、布団の感触に苦笑する。確認するまでもなく、素っ裸だ。相沢さんに抱かれた後、そのまま眠ってしまったのだろう。一応の確認をすると、僕の体は